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涙や怒りはあっても笑いがない、それが戦争 桂歌丸さん

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誰だって、戦争なんぞ嫌なもんだ!
でも、戦争に成らない為の努力は必要だよね?
この手の意見は「軍隊無くし、話し合いで解決」とか、素っ頓狂な意見しか無いから議論にならんのだわ
軍隊が有ろうと無かろうと、話し合いで外交して戦争を回避するのは、世界の常識だ!
まぁ、北朝鮮とか中国とか一部では違うけど、そう言う国家が日本に話し合いすっ飛ばして攻めて来たらどうすんだ?って聞きたいわ! 


 1945年5月29日。当時、千葉県に疎開していた落語家の桂歌丸さん(79)は、東京湾の対岸に上る黒煙を見ていた。


 生まれ育った横浜市が、米軍のB29などによる大規模な空襲を受けていた。自分を育ててくれた祖母は、そこに残ったまま。「ただただうちの者がどうなったろうっていう、そんな心配ばかりでした」

 そして8月15日。歌丸さんは周りの大人たちと、ラジオから流れてくる玉音放送を聴いた。「今でも覚えていますよ。えらい暑い日でね。戦争に負けたと聞いてほっとした。しめた、横浜に帰れるって思ったんですよ」。9歳の誕生日を迎えたばかりの少年は喜んだ。

     ◇

 迎えに来た祖母とともに帰った横浜は、一面焼け野原だった。歌丸さんの自宅は同市中心部、現横浜スタジアムの近くにあったが、バラックのような家の中に座ったまま、北東に山下公園、南は磯子区八幡橋が見渡せたという。数百メートル先にある今の横浜中郵便局近くで市電が止まると、何人が降りて何人が乗るか数えることもできた。「なんにもないんだもん。それぐらいすごかった」

 戦後の貧しさの中、庶民に潤いを与えたのは、ラジオなどから聞こえてくる落語だった。「昭和の名人と言われていた師匠連中が、お客様をうわうわと笑わせていた」。週2回の落語の放送の熱心なリスナーだった歌丸さんは「これだ」とひらめき、小学4年生の頃に落語家になろうと決意。学校でまねごとをしては友人らを笑わせ、中学3年で弟子入りした。

 今や、芸歴60年以上。落語芸術協会の会長にもなった歌丸さんが「だいぶ後で気がついた」ことがある。「人間、人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや」。涙や怒りはあっても、「人間にとって一番肝心な笑いがないのが、戦争をしている所」と感じている。

 今の日本の政治家は「怒り顔」や「ぼやき顔」が目立ち、「油断できない」と話す歌丸さん。最近は、メディアで自身の戦争経験を語る。「今、日本は色んなことでもめてるじゃないですか。戦争の『せ』の字もしてもらいたくないですよね。あんな思いなんか二度としたくないし、させたくない」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151019-00000015-asahi-soci