原爆忌に考える 憲法が守ってくれた
スマホ云々の下り必要ね~じゃね~か!
携帯の電波じゃなくて、怪しい電波受信しまくりで更におかしくなった人のポエムかよwww
これが平和というものですか。多分、いいえ、きっとそうなのでしょう-。
公園わきに事務所を構える長崎原爆被災者協議会。横山照子さん(75)は一九七二年から、被爆者の相談員を務めています。
五人姉妹の三番目。原爆投下は、祖父母や姉二人とともに疎開していた島原で知らされた。
母親と一歳四カ月のすぐ下の妹は、四キロ離れた自宅の庭にいた。
B29の機影を認めた母親は、幼子の上にとっさに身を投げ出した。その直後、突き刺すような閃光(せんこう)と猛烈な爆風に襲われた。
物心ついて初めて記憶に刻まれたふるさとの風景は「原子野」で、その印象は「死の街」だった。
自宅に残った妹は原爆で声を失った。
入退院を繰り返し、中学に入学したのは十五歳の時だった。通学できたのは一年生の一学期だけ。その後はずっと病院を離れられずに、四十四歳で亡くなった。
最も元気だった母親が、にわかに胃がんを発症し、首回りが倍になるほど甲状腺を腫らした父親も、肺がんのため相次いでこの世を去った。戦後生まれの末の妹は、小学校に上がるころ、紫斑病に襲われた。自身もしばしば強い貧血に見舞われた。
原爆を語れば「原爆まみれ」の家族を語ることになる。横山さんはマスメディアにも反発し、言葉を封印し続けた。
◆無駄死ににはしない
横山さんの高校には、週一回「六法」の授業があり、新憲法の前文を暗唱したりした。
その集会で被爆詩人の福田須磨子さんが、毅然(きぜん)と言った。
目からうろこ、言葉がすうっと心の中に落ちてきました。
昨年の被爆七十年を記念して長崎被災協が編集した証言集「ノーモア ヒバクシャ」に、横山さんは書きました。
<暗く悲しく寂しい被爆者を再びつくり出さないために、あの日亡くなった人々を無駄死ににさせないために『九条』がある…>
それでも相談員という聞き役だった横山さんが、自身のこと、家族のことを自ら進んで語るようになったのは、二年ほど前からです。
背後から静かに忍び寄って来て、この国のかたちを再び変えてしまおうとするものに、強い不安と怒りを覚えているからです。
◆言い尽くされない言葉
今いちばん語りたいこと、伝えたいことは何でしょうかと、横山さんに聞いてみた。
「言い尽くされたことですが、“あの日”を繰り返してはならない、です。そのために、自分の目で見て自分の言葉で語り、自分の未来を自分の頭でよく考えていただきたいと-」。共感します。
横山さんは、長崎は、広島は、そして私たちも声を限りに伝え続けていかなければなりません。
「“この日”を繰り返してはならない」と。