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取材された難病少年も静かな怒り、日本の海外ロケの無茶

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 「ぼくは世界中のドキュメンタリー番組で人生を語ってきた。ベルギー国内5回、フランス2回、ドイツ2回、イギリス1回、そして日本2回。たいがい楽しくやったけど、日本の取材班にだけはほとほと困らされた」。世界でも希な難病を患うベルギー人少年ミヒル君(15才)は、昨年出版した自著の中で、日本からの取材班がいかに虚構を描こうとするか、静かな怒りを込めて書き綴っている。
 筆者も、テレビ番組取材のためのリサーチやコーディネートを請け負うことがあるが、そのあまりに身勝手で無謀なロケに閉口することが少なくない。そのやり方は、他国の取材班と比べても、極めて独特であり、現地社会で顰蹙を買う場合も多い。何がミヒル君を困らせたのかを検証しながら、海外各地のコーディネータ仲間、そして筆者自身の経験と照らし合わせて、日本の海外ロケの問題性を明らかにしてみたい。

■「それは僕の顔じゃなかった」

 ミヒル君の病気は、全身の老化が異常に早く進行してしまう早老症疾患『プロジェリア』だ。世界で確認されている存命患者数は40名ほど。平均寿命が13才位とされること、また、ミヒル君の家族では兄妹で揃って罹患していることなどからメディアの注目を浴びてきた。

 日本からのテレビ取材を受けたのは2009年のこと。取材当時、平均寿命とされる13才にそろそろ近づこうとしていたミヒル君を前に、カメラは『死の影に怯える悲壮な少年と家族』を描こうと必死だった。サッカー選手になりたいという将来の夢を語らせておいて、「でも、君に未来はないよね」と声をかける。それでも涙を見せないミヒル君を、とうとう祖父の墓まで連れて行き「もうすぐ、君もここに入るんだね、大好きなおじいちゃんに会えるね」とたたみかける。

 ミヒル君はこう回想する。「ぼくの目に涙が出てきたら、彼らはズームアップして撮った。その顔を後で見たけれど、それは僕の顔じゃなかった」と。ミヒル君の父親はとうとう爆発し、「もう止めだ。偽りの姿を見せたくはない。私達家族は悲嘆に打ちのめされているわけではない。それが気に入らないなら、荷物をまとめてさっさと帰ってくれ」と叫んだという。

 ここで浮き彫りにされている問題は、筆者も度々直面することだ。高視聴率を得るためのテーマや映像を安直に求めすぎるのだ。日本のテレビ界では、番組は質的評価よりも、視聴率という量的尺度が一人歩きしている。衝撃的な映像や大音響を盛り込めば、無計画にチャンネルを変える手が留まりやすくなるので数値が上がる。社会問題など映像や音声的には単調でも「知らせるべきこと」を掘り下げるような番組は、企画が通りにくく予算が付かない、と、ある制作関係者がこぼす。

■過熱する「ネタになる日本人さがし」

 視聴率を稼げる定番といえば、「難病」や「残虐事件」のドキュメントものだ。見てぎょっとするような珍しい難病は絶好の題材になる。描き方は感情的で涙を誘うが、長期的な視野にたって患者やその家族に寄り添うものではない。また、あるタイプの番組がヒットすると、どこの局でも軒並み同じような番組ばかりになってしまうのも日本の特徴だろう。

 近年は、「外国に暮らす日本人もの」がやたらにはやり、ひとつの番組でも複数の制作会社が競って出演候補を探すので「ネタになる日本人さがし」が激しい。制作側にとっては、出演者に通訳も頼めて安上がり。視聴率もそこそこ稼げて都合がいいらしいが、海外に暮らす日本人の間では食傷気味だ。

 でたらめのヤラセとは言わないまでも、「行き過ぎた演出」がまかり通るのはいかがなものか。日本の制作陣は、ロケ地に入る前に日本で入手できる情報を基に、制作会社と局(時にはスポンサーも交え)で徹夜の会議を重ね、シナリオをガチガチに固め、それにピッタリはまる映像とコメントを撮りに来る。限られた予算と日程の中で手っ取り早く撮ろうとするので「ドキュメンタリー」とは名ばかりだ。

■台本ありきで手っ取り早く

 「お土産なんか買いに行くことはない」というミヒル君をショッピングに駆り出し、普段はしないパパの出勤お見送りを小さな妹とともにやらされたという。筆者の経験したケースでは、取材を受けた大学教授が、求めている発言が出てこないと苛立つディレクターに対し、「台本があるなら、役者にその台詞を言わせればいい。私は役者ではない!」と怒鳴ったことがある。また、質問への答えが5年前の雑誌インタビューと異なっていると文句を言われた著名チェロ奏者は、「私は生身の人間で、過去とは人生観が変わって当然。あなたたちは、今の私を描きに来たのではないのか?」とあきれ返った。

 ミヒル君のケースであからさまなのは、人道や倫理の意識の乏しさだ。ミヒル君に涙を出させるためには手段を選ばない。筆者はこれまでに、幼い子ども、病気や障害を持つ人、性志向上の少数派などの取材にも関わってきたが、制作側の勝手な都合で早朝や夜中まで長時間取材を続けたり、番組の本質に無関係なデリケートな質問を興味本位で繰り返したりと、人間性を疑いたくなるようなことも少なくなかった。

 取材班が勤務中の警官にプライバシーに関わる質問をしつこく続け、後日、筆者が呼び出されて、執務妨害で厳重注意を受けたこともある。コーディネーターとしては、その場では指示に逆らえない。「コーディネータの分際で」と、取りあってもらえないからだ。

■疲弊する非正規社員の非常識

 近年、日本の番組制作の現場担当者は、下請け・孫請けの制作会社の非正規社員がほとんどで、際限のない残業で疲弊し、思考回路をオフにして突っ走っているようなところがある。普通なら考えられないような非常識も平気で、現地の人々に大ひんしゅくを買ったり、事件や事故になったりしかねない。

 諸外国のテレビ取材もみんな同じようなものなのだろうか――EUやベルギーの公的機関のプレス担当に尋ねてみた。日本の取材陣と他国の大きな違いは、流暢ではなくとも意思疎通に充分な英語ぐらいはできること。「あなた達のような通訳からパシリまで何でも丸投げできるコーディネータなんて存在しないから、自力でなんとかしてますよ」と苦笑された。ホテルや食事代は徹底してケチるそうだが、抜け目なく辛抱強く取材の瞬間を狙うという。「やり直し」は利かない真剣勝負と心得ているからだ。

 難病を負って生きる15才のミヒル君の人生には「無茶」は利かないし、「やり直し」ができるわけもない。研ぎ澄まされた冷静な洞察力をもって一分一秒を大切に生きるだけだ。著書の中にネガティブな文言はほとんどないだけに、日本の取材班について滲み出る不快だけが異様に目立っている。

 日本の海外番組制作者はこれを真摯に受け止め、海外ロケのあり方を見直すべきではないか。そう痛切に感じている。
http://webronza.asahi.com/global/2014071400001.html