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<サンデー時評>居所不明の小中学生千人と「親」

 
 ◇岩見隆夫(いわみ・たかお=毎日新聞客員編集委員

 居所不明の小中学生が全国に千人近くもいる。文部科学省の調査でわかったそうだ。驚きである。それとも、こんな数字には、世間もあまりショックを受けなくなったのだろうか。

 大阪の女児不明事件は、出生直後に死んでいるのに(殺したらしいが)両親が児童手当を不正受給していたことがわかり、詐欺容疑で逮捕されたという。居所不明の千人がどこで何をしているか不安が先に立つが、大阪のような恐ろしいケースがほかにないことを祈るばかりだ。

 やはり親子関係がおかしい。親の子殺し、子の親殺しは論外だが、しかし、その背景にはうっすらとした親子不信が広がっているようにも思える。深刻なテーマだが、どうしたらいいのか、処方箋があるようで、ない。

 先日、高齢者中心のある集まりがあって、一人が以前に聞いた話として次のような親子物語をしてくれた--。

 その男は妻を早く亡くし、幼い娘と二人暮らしだった。娘が十二歳の時、体調が悪くなる。医者に薬をもらいにいって帰ってきたが、折り返し医者から、

「残念ながらお嬢さんはあと一年の寿命……」

 と電話があった。男は途方にくれる。思いあまって、近所の人が信仰している五感観音に出かけた。五感は目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)のことで、それらを守る観音さまだ。男は祈った。

「私の五感の一つをご供養に捧げますから、娘の寿命を十年延ばしていただきたい」

「五感一つでかなえられるのは五年じゃ、十年が望みなら、二つ捧げるのじゃ」

 と観音さまはおっしゃる。それでは、と男は視覚と聴覚を捧げますと誓った。一気に目と耳を失ったのだ。

 娘が二十一歳になった時、恋人ができ結婚した。しかし、命はあと一年。男は再び五感観音にまいって、

「もう十年」

 とお願いし、こんどは嗅覚と味覚を差し出した。娘は幸せに暮らし、子供にも恵まれた。そのうちにいい薬が発見され、娘の病気が治る。

 男は娘夫婦と孫の四人で抱き合い、喜び合った。娘たちの涙が男の手のひらにポタポタと落ち、すでに四つの感覚を失っている男だったが、確実に涙を感じ取ることができた。

「ああ、最後に触覚を残しておいてよかったなあ」

 と男は心からつぶやいたのだった--。

◇視覚聴覚失った復員兵 乳房吸わせた岸壁の母

 集まりに参加していた全員がシーンとなった。作り話ではあろうが、父親の捨て身の情愛に感じ入り、おれにできるかな、と自らに問うたからである。とても、そこまでは犠牲的になれそうにない、とみんなが思った。物語の提供者に質問がでた。

「捧げる順番には、何か理由があるのですか」

「いえ、たまたまそうなったのだと思いますよ」

「それなら、私は最後に視覚を残したい。孫の顔も見えるし、涙だって見える」

 五感のうちどれが失われてもつらいことだが、確かに盲目ほど残酷なことはない、と目明きは単純に思う。

 一方、盲目になって初めて見えてくることもたくさんある、という話も聞くし。

「最後に残すものを一つ選べと言われれば、おれも視覚だ。暗やみではとても生きていけそうにないから」

 という声も出たが、この話、なかなか交わらない。

 そのうちに、別の一人が、

「子供のころ母親から聞かされたんだが、時々思い出すんです」

 と言って、〈岸壁の母〉の話をした。敗戦後しばらく、外地から帰還する復員兵の息子や夫を待って、母や妻が毎日、帰還港の岸壁に立ちつくす。京都・舞鶴港が中心だったが、どの港に帰りつくかわからない。〈岸壁の母〉という歌まで作られヒットした。その話というのは--。

 一人の母親がある日、下船してくる復員兵たちのなかに、ついにわが息子の姿を発見した。ところが、悲しいことに、息子は傷病兵で、失明しているだけでなく聴力も失っていた。駆け寄って、腕をとり、

「おお、おまえ」

 と何度呼びかけても通じない。母親はとっさに何をしたか。立ったまま乳房を出し、息子の口に押し当てて吸わせたのである。二人は初めて抱き合い、息子の生還と再会を喜んだのだった--。

 すぐに質問が飛んだ。

「赤ん坊の時に吸った感触を、その兵隊さんは覚えていたということですかねえ」

「そうじゃないんですよ。公衆の面前で、そんなことができる女性は世の中に母親一人しかいない。息子もすぐにわかったんじゃないですか」

 と話題提供者が答え、質問者は愚問を恥じた。

 さて、居所不明の小中学生約千人の話に戻ると、二つの親子物語に登場するような父親、母親がいたころ、居所不明事件など起こるはずがなかった。親子が深い情愛で固く結ばれていたからだ。いまは情愛が浅く、薄くなったと簡単に言い切ってはいけないと思いつつも、やはり親子関係は次第に疎遠に流れているように見えて仕方ない。

 例が適当でないかもしれないが、以前から気になっていた。観光地をのぞいても、食べもの屋に入っても、列車に乗っても、とにかく女性グループが目立つ。みんなで渡れば、でもあるまいが、女性同士で楽しむ情景を見るたびに、

「子供はどうしているのかな」

 と思ってしまう。私が小中学生のころ、帰宅すれば必ず母親がいた。どの家庭でもそうだった。

 いま母親がいないことに子供のほうも慣れ、一人部屋でゲーム機を相手に満足している。母子の会話量も、母親が叱る回数も格段に減っているのではなかろうか。これは恐ろしい変化だと思ったほうがいい。

<今週のひと言>

 おごるなよ、自民党

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130306-00000000-sundaym-pol&p=3